「普通じゃない」といじめられるのか
- 初めに
最近、好井裕明の「『当たり前』を疑う社会学」を読んで、「普通」という言葉に疑問を持ち、多くのことを考えさせられた。
「普通」という言葉がいじめt無関係には思えなかったため、自分はいじめというものを「普通」、「普通じゃない」という言葉をもとに考察した。
- 「普通」の定義
まず「普通」という言葉が持つ意味を調べた。
ふ-つう【普通】
① 特に変わっていないこと。
② ごくありふれたものであること。
③ それがあたりまえであること。また、そのさま
(https://dictionary.goo.ne.jp/jn/193346/meaning/m0u/より引用)
つまり「普通」であることの意味は周りと大きな違いがなく、どこにでもいるような人であること、となるだろう。
私は本当にそんな人がいるのか、ということに疑問を持った。
- いじめとの関係性
現在多くの小学校や中学校、もしくは職場などでもいじめというものが起きている。
そこで私はいじめられる理由にはなにがあるのか調べてみた。
そうするといじめられる人の特徴として以下があるようだ。
- あきらかに不潔
- 自己主張がなく、おとなしすぎる
- 勉強ができない
- オシャレすぎて、かえって目立ってしまっている
- 他の学校から転校してきた
- 運動が苦手
- 太っている、痩せすぎ
- 簡単なことが1人でできない
- 陰口をたたく
- 嘘をつく
下の二つはともかくそれ以外のものはその人の違う部分、変わっている部分がいじめられる原因となっているのだろう。
つまりその人の「普通」ではない部分がいじめられる原因となっているといえる。
しかし、「普通」の基準とは何だろうか。何をもっていじめる側は「普通」な人と「普通じゃない」人に分けているのだろうか。
- 「普通」という言葉の考察
人には誰にでもその人の特徴がある。
上で挙げたいじめられる人の特徴も、その人の一つの特徴でしかないだろう。
しかしいじめる側の人間はそれを「普通じゃない」とし、いじめの対象とする。
もちろんいじめる側の人間にもみんな特徴がある。
しかしその人たちはいじめの対象を「普通ではない」とし、自分たちがあたかも「普通」であるようにふるまう。
「普通ではない」のはむしろいじめを行なっている方ではないだろうか。
ある人の、誰もが持っている「普通」ではない部分を挙げてそこを徹底的に侮蔑する。
その行為は自らを「普通」であると認識して安心するための「普通ではない」行為である。このようなことが認められるのなら「普通」の人なんていなくなってしまう。
では、「普通」とはなんだろうか。
筆者はその人そのものであると考える。
つまり、「普通」とは人によって違うのだ。
誰かにとって「普通ではない」こともその人本人にとっては「普通」なのだ。
しかし、現実としていじめは起きてしまっている。
この問題を解決するためには、好井が使っていた空洞という言葉が鍵になるだろう。
好井は、人は空洞を持つべきだと述べていた。
空洞とはつまり、受け入れる心、他人の「普通」を「普通」として受け入れられる心だ。
この、空洞をもつことで人は他人を理解し、「普通ではない」と差別化するかことはなくなるだろう。
- まとめ
人は誰もが「普通ではない」部分を持っている。
しかしそれはその人にとっては「普通」なのである。
時に人は人の特徴を晒し挙げ、バカにしたり、いじめの対象にしたりすることがあるが、それを防ぐためには空洞、すなわち他人の自分とは違った部分をそれはその人の普通であると受け入れられる心をもつことが大切である。
まずは自分も「普通ではない」部分を持っていると認識することで、いじめのような争いや差別は減っていくと筆者は考える。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
何かの参考になったら幸いです。